中島岳志「保守と立憲」を読んでみた。 ― 2018年03月26日

 いろいろと事情があって、長いこと休んでいました。

 いつの間にか季節は、厳冬から春うららの桜花咲き乱れるころと変化し、心も幾分軽くなってきた気分です。にもかかわらず、世の中は、相変わらず騒然としています。
 そんな中で手にして読んでみたのが、「保守と立憲」中島岳志著でした。帯には、枝野幸男氏の「右でも左でもなく前へ」「保守こそリベラル。なぜ立憲主義なのか」と続く。
 前大阪市長の橋下徹氏にはずいぶん嫌われている中島岳志ですが、相変わらず評論の切れ味は、絶妙でした。ただ、私が眠っているうちに自殺してしまった(? あるいは、自死を貫徹したか)故西部邁氏が主幹(?)であった「表現者」に掲載された記事の集大成になんと立憲民主党の枝野氏との対談を合わせたものでした。保守主義者の立場をとる中島岳志のリベラル保守の立ち位置が鮮明に浮かびます。
 論考の「死者とともに生きる」のなかに、「自己に宿る深い思いは、時には言葉にならない。無理に言語化しようとすると、その言葉から思いが逃げていく。大切な思いが、言葉に奪われてしまう」という一節には共感できます。

保守と立憲  世界によって私が変えられないために
 中島岳志著 スタンド・ブックス刊

矢作直樹の本は、やはり超越している ― 2018年01月17日

『自分を休ませる練習』を読んだ。5,6年前、新聞の一面下段に載った書籍広告の『人は死なない』に衝撃を受けた。タイトルがストレートすぎる。
早速大型書店に行ったら、品切れ、注文扱いとなってしまった。そのあと、用事があって遠方に出かけたので手にしたのは、2週間後。すぐに読み終えたが、前半は「そうか」と思ったが、後半部は、スピリチャルの世界になだれ込んでいるため、首を傾げた。矢作は、東京大学病院の救急センター外科部長(?)だった。医者のくせになぜ?と思うとともに、医者だからこそか。とも感じた。その後、矢作先生はスペリチャルの世界で大変有名になり、いくつも本を出している。それらは読むに値しないと思い読んでいない。
本書『自分を休ませる練習』は、カバーでは、今はやりのマインドフルネスをうたっているが、本自体は、世間一般の「マインドフルネス」の概念あるいは考えと異なっているように思う。ありていに言えば、あまりに簡単で分かりやすい話ばかり。問題は、「これがうまくいかないんだよね」というところだ。しかし、矢作はほんとうにわかりやすい平易な言葉で話してくれる。
そう、話をしてくれるような・・・
一度に全部読まなくてもよさそうだ。拾い読みをしてわかるところ、できるところからこなしていける。
『自分を休ませる練習』文響社刊 ¥1,000+税

アメリカ 暴力の世紀 を読む ― 2018年01月16日

『アメリカ 暴力の世紀』ジョン・W・ダワー著 岩波書店刊
言わずと知られた『敗北を抱きしめて』の著者である。タイトルは、1941年に話題となった『アメリカの世紀』をもじって暴力を入れ込んだ。邦訳で、順序が多少入れ替わり、本書のタイトルとなった。
さて、先日紹介したビカート著『知らなかったぼくらの戦争』と被るところがある。ビカートはこの本で、オバマ批判をやってのけた。アメリカ大統領初の広島訪問を茶番だと言っている。なぜ長崎に行かない!と強く言う。イワクニで海兵隊に雄弁な励ましの演説をしてオスプレイに乗って広島にやってきた。岩国の時間を縮めてでも長崎に行かなかったかのか。 
疑問を投げかける。と同時にその理由を明かす。広島の原爆と長崎の原爆の違いにあることを話す。ビガートは、通訳として岩国から広島へオバマに同行した。
では、ダワーは、『暴力の世紀』で何を語るか。同じである。長崎の原爆こそが、アメリカの暴力装置そのもの。世界戦略の要としての核であった。プルトニュウム爆弾である。オバマは、「核なき世界」を提唱し世界は称賛したが、この意味は、「アメリカを除く」の但し書きがあるという。
以前このコーナーで紹介したスティーブン・ピンカー著の『暴力の人類史』を暴力減少主張派として厳しく批判する。ピンカーは、今の時代は、とりあえず「暴力」は減少し平和な時代が長らく続いているという。ただし、先進諸国と欧州諸国に限ってのことだがと、前置きはつく。しかし、ダワーもビカートもずっと戦争はあったとする側にたち批判を展開する。
『アメリカの世紀』と言われた時代は、実は、「戦争と難民の世紀」であったはず。
全世界に800もの軍事基地を持つアメリカ。こんな軍事大国は歴史上なかった。うち、120は日本国内にある。日本は、世界的に眺めれば、アメリカの前進基地といえる。その限りにおいて、北方領土は、日本に返還されることはないであろう。

アーサー・ビナード著知らなかったぼくらの戦争 ― 2018年01月15日

『知らなかった、ぼくらの戦争』アーサー・ビナード著 小学館刊
私が手に取った本書の帯には「大反響!7刷出来」とある。ベストセラーはあまり手に取らない自身ではあるが、タイトルに魅かれた。著者アーサー・ビナードは、アメリカ人の詩人、かつラジオのパーソナリティーらしい。日本語も達者で日本語で詩作をする。本書は、戦後70年を迎えた2015年、本人の興味から戦争体験者からインタビューをしてラジオで放送したものをまとめた。戦争を体験したあらゆるレベルの日本人(たぶんあらゆるに語弊はないだろう)に聞き取りをした。一人一人の日本人は、そこそこ名が知れている人もいて、どこかで読んだ方もいらっしゃる。そう、故大田昌秀氏は、まさにとそう。はるか昔『沖縄近代史』を読ませていただいた。
ビナート氏はどのような来歴かはよく知らないが、聞き取りは巧みだ。また、表現もわかりやすく読みやすい。そもそも、書き始め、「戦後」について定義し、アメリカ人の自分にとっては戦後はなく、自分はベトナム戦争戦中派と表現、21世紀に至った今においても、アメリカにとっての戦後は何を意味するのか不明、わたしもそう思う。
アメリカ人として教えられてきたことの矛盾、嘘などリアルに感じるというところが正直だ。学者っぽくない、詩人の語り、言葉を大事にする所以か。
本を読まなくなった多くの若者に読んでみてはと薦めたい一冊、そんな感じがする。

内田樹「ローカリズム宣言」を読んで ― 2018年01月10日


内田樹著「ローカリズム宣言」を読む
多筆の内田、コンサバの佐藤優かリベラルの内田かぐらい両極にいるがその著作数は膨大だ。私も、佐藤と内田の著作には大分投資させていただいた。そのうち、おいおいと紹介していきたい。
さて、「ローカリズム宣言」について。なぜ、内田樹が「田舎主義」を書いたか。ただ今はやりといえば、流行で、藻谷浩介の「里山資本主義」などは、ベストセラーになっている。
「ローカリズム宣言」は、Iターンを志向する人々が読む雑誌に連載された記事の総集編だ。ゆえにターゲットがしっかりとしているので、内田の論拠は鋭い。なぜ若者は、地方を目指すか、国の進める「地方創生」への大胆な批判、生き行くすべの方法を私塾に求めること。どれをとっても痛快。内田樹が何やら左派臭いので嫌いだという考えの人にとってもこれは読める。もしかすると、日本の保守本流の在り方を丁寧に話してくれているのかもしれない。
たくさんの人がこの本を読んで、内田の言説に感動を覚え、その道を探ってみようと動いたら、もしかすると日本は変わるかもしれない。

『湯殿山の哲学』を手にして ― 2017年10月26日

 湯殿山は、出羽三山の一つ。月山、羽黒山、そして湯殿山。筆者は、スコラ哲学者山内志朗。湯殿山に生まれ育った。
 じっくりと読ませていただき、感想を後日書き述べることにした。

ちょっと古いが「カチンの森」を読んでみた ― 2017年10月23日

 私が「カチンの森」を知ったのは、1980年初頭の藤村信「パリ通信」(岩波書店「世界」不定期連載記事)に書かれていたのがきっかけだ。当時ポーランドでは、「連帯運動」が起こり政権の打倒が叫ばれるさなかであった。81年9月、私は、ボロボロの格好でワルシャワの裏町で腹を空かせて歩いていたのを覚えている。
 「カチンの森」虐殺は、偶然起こったことではなく、スターリンのポーランド分割の戦略上、計画的に行われたものと理解する。ソ連崩壊間際のゴルバチョフ時代に多くの情報が公開され、また、ロシア共和国になった後にもより重要な情報が公開され、ゴルバチョフの後継であったエリチェンは、ポーランドに対して詫びを入れている。その後、プーチン時代には、否定され、情報も隠された。いわく、それは、ソ連がやったことではなく、ウクライナ、ベラルーシがやったこと、1万5000人ではなくもっと少ない4000人足らずであった。などなど。どこかの国の「大虐殺などなかった」論調に似ていなくはない。
 ソ連という国は面白い国で、官僚国家であった(今もそうだが)がためなんと書類が克明に残こされている。つまり、どこの誰が、どういった理由で誰を逮捕、そして処刑し、どこに葬ったかと記載されている。かの大テロル時代(1930年代)の何百万人に上る処刑者リストが今も残っているというからある意味スゴイ国である。我が国は、半年前の文書を処分してしまうのだから。(その文書の分析を屈指し、次々に新事実を突きつけたのが歴史家ティモシ・スナイダーだ)
 本書「カチンの森 ポーランド指揮階級の抹殺」ヴィクトル・ザスラフスキー みすず書房刊 2010年7月発行 は、2006年、イタリアで新たに資料に基づき出版された。「カチンの森」をめぐる問題は、まだ幕は降りず、上演真っ盛りといったところだ。事件が起こってすでに77年が経過している。20世紀に起こったことの検証作業は、未だ片付いてはいない。