『悪』の話は尽きない2018年12月26日

8ヶ月ぶりの更新となる。この間何をやっていたかというと勤めの仕事を辞めて、通学通勤の何十年にも及ぶ朝の定刻時の電車に乗らなくなった。大きな変化だった。
また、佐藤優かというと飽きも来てしまう。ということで『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』佐藤優と『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』仲正昌樹著を読んだ。
この本で描かれた『悪』は、些細な悪ではない、人間にとって本来普遍的に内在する悪について語られている。佐藤とハンナ・アーレントを通して語る仲正の悪の表現は、いづれもナチズムとスターリン主義に根源を置いている。凡庸な人間ほど悪の力に惑わされ、悪を進行させる。これ、つい最近もどこかにあった話。モリ・ナントカだったっけ。

『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』佐藤優著 朝日新書 朝日新聞出版刊¥780

『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』仲正昌樹著 NHK出版新書 ¥780

木村草太の憲法の新手2018年12月26日

 沖縄・辺野古の土砂搬入が始まった。ネットでは、モデルタレントが、ホワイトハウスへの署名運動を起こし、辺野古・沖縄問題とは程遠い人々にも話題を投げかけた。大したものだ。気鋭の憲法学者木村草太は、辺野古土砂搬入は、「違憲の疑いがある」と発言している。
その木村草太が沖縄タイムスに連載をしていた憲法を理解して沖縄問題に向き合おう とでもいう内容のものだ。
 記事は、2015年2月から2016年12月に連載されたもので、辺野古問題が過熱化ししていたころである。憲法解釈は、多岐にわたる。すべてが沖縄問題ではなく、様々な解説の中から沖縄問題への接点を探し出し、論じられる。憲法学者といえば、堅く小難しい理屈を多用すると思われがちであるが、木村はそうではない。憲法から見れば沖縄の現状はどうなのかということをわかりやすく解説している。
 強く一読を薦めるが、たぶん本土ではなかなか手に入らないだろう。

『木村草太の憲法の新手』木村草太著 沖縄タイムス社刊 ¥1200 2017年3月

夏に「マルクス・エンゲルス」を見た2018年12月28日

ここのところ周年事項が続いている。数年前の第一次世界大戦開始100年とロシア革命100周年、ドイツ革命のとん挫100年、第二次世界大戦終結70周年、そして明治150年周年(これは後日後述)などだ。2018年も迫るところあと数日で終わり。残り少ない今年は、マルクス生誕200周年だった。
 19世紀から20世紀が終わるころまで、マルクスの影響は多大なものがあったが、21世紀となってから、その影響は影を潜めた感があったように思う。生誕200年だからと言って、それほどの賑わいは感じられなかった。むしろ、ひっそりとしていた。
 大型書店では、カール・マルクス特売をやっていたわけでもなく、(東京・新宿K書店では少しカール・マルクス・フェアがあったようだ)雑誌特集もマイナーな『現代思想』でやっていたぐらいだ。
 ところが欧州では違うようだ。昨年フランス・ドイツ・ベルギー合作で「マルクス・エンゲルス」というタイトルの映画が作られ、日本では、岩波ホール創立50周年記念作品、カール・マルクス生誕200周年記念作品として上映された。4月から6月の古い話で申し訳ない。6月9日朝日新聞朝刊の読書欄には、柄谷行人のマルクス関連本の書評が紹介がされていた。
 映画は意外と面白かった。マルクスの若き時のフリードリッヒ・エンゲルスとの出会いから『共産党宣言』誕生までの日々を描いている。山高帽を被ったマルクス、エンゲルスの
躍動はとても新鮮に映った。大内兵衛らのマルクス伝記を読んでみても、この表情は、想像することができない。さすが、映画。200年目にマルクスは復活するか?

2018年は、ナチスの映画ばかり観ていた2018年12月29日

 2018年の総括をしよう。といっても観た映画の感想を述べるだけですが。
 今年は、ヒトラーがらみの映画をよく観た。「ヒトラーへの285枚の葉書」、「ヒトラーを欺いた黄色い星」、「ヒトラーと戦った22日間」「ハイドリヒを撃て!」「ゲッペルスとわたし」
 そんなにたくさん映画を観るわけではないけれど、終わってみればかなり多くのヒトラー関連、ナチス関連映画があるものだと感心します。そういえば、サム・ペキンパー監督の「戦争のはらわた」もリミックス版として公開されました。
 欧州は、未だにナチス、ヒトラーについて語り継ぐ作業を続けていると強く感じてしまうのはなぜだろうか。第二次世界大戦終結、ナチス崩壊から70年以上たったいまも、新たな題材を見つけ、あるいは、切り口をかえて繰り返し、繰り返し作品が作られ、観られています。日本では、2年前にアニメ「この世界の片隅に」が大ヒット、これも意外なヒットとして話題となりました。このアニメもつらいことはなかったことにして忘れてしまおうという意識が伏流にあるような気がしました。
 欧州人には、ナチスと戦ったという価値観が広く残っているのだろうと思います。ナチスと戦うことは正義だった。戦争がおわってみれば、みんな(ドイツ人以外)正義に貢献したという立ち位置にいたのでしょう。それは今も変わらず、残っているのだろう。
 日本人の意識は、どちらかというとドイツ人と同じ立場のはずなのに、被害者となっているために、正義に貢献したという立ち位置にはいられない。結果、「忘れよう」になってしまっているのではないでしょうか。

BARBARA バルバラを観る2018年12月31日

 2018年の締めくくりは、映画「バルバラ」についての感想を書こう。
 12月の初めころ、映画「バルバラ」を観た。どうしても見たかったわけでもなく、気にかけていたわけでもない。それでもわざわざ東京・渋谷の映画館まで出向いた。ほかの観客は、シャンソンファンであったり、歌手クミコのファンであったり、身なりのしっかりしたご婦人方が多くいた。場所が東急BUNKAMURAであったためだろうか。
 私が初めてバルバラに触れたのは、ジャズ喫茶全盛の時代、モダンジャズの鳴り響く合間に息抜きなのか、バルバラが流れ出す。ジャズ喫茶の薄暗い空間をさらにどっしりと湿り気のある空気を流し込む。いつしかジャズよりもバルバラのほうに心が流れて行ってしまった。気の利いた小さなサテンにレコードを持ち込み、ほかに客がいなくなったころを見計らい、ウオッカをストレートで仰いで聞いていた。
 バルバラは1930年、ウクライナ系ユダヤ人を母にパリで生まれた。そして97年この世を去る。日本では何度か来日公演を開いたが、私は聞きに行くほどの度胸はなかった。映画は、このバルバラの生涯を描く・・・・・ ではなかった。
 バルバラを描こうとする映画監督とバルバラに扮する女優を描く「映画」とでもいうのか、
 バルバラになり切ろうとする映画上の女優は、バルバラを真似る。さらにその女優を演じる女優バリバール(BALIBAR)はバルバラになり切ろうとする。映画には本物のバルバラの映像も挟み込まれる。バルバラは演じるものに憑依する。どれがだれだかわからない。映画監督(映画上の)すら本物のバルバラだと信じ込む。
 映画そのものがバルバラの世界観の中に引き込まれてしまった。